小説

それを愛とは呼ばない

東野圭吾『容疑者Xの献身』

★☆☆☆☆ しかし ★★★★★

 ベストセラーにもなり評判の高い作品だ。たぶん、謎解きの複雑さと、そして何よりも犯人の動機(=愛)のあまりの純粋さが読者を魅了しているのだろう。

 しかし、だ。私には分からない。これって、愛ゆえの犯罪なのか? 

 作品の筋書きとしてはこうだ。――数学の教師をしている主人公の隣部屋に、バツイチの女とその娘が越してくる。数学教師はその女に惚れる。女のところに元夫が押しかけてきて、はずみで女は元夫を殺してしまう。それを知った数学教師は、女が警察に疑われないよういろいろ面倒をみて、あげくの果てには自分が罪をかぶって自首する。

 私は、推理小説が好きだが、べつに謎解きそのものには興味がない。むしろ、殺人という究極的な状況にまで人を追い込んでしまう、人間の情念や感情の奥深さに触れることができることに魅了される。

 その点からいうと、数学教師の女への「愛」の描き方はいかにも嘘くさい。人間と人間のあいだに生まれる感情の「重み」がまるで感じられないのだ。というのも、数学教師と女の接触場面といえば、同じアパートに住んでいるから時々挨拶を交わし、そして女が働いている弁当屋で数学教師が毎日弁当を買うという、それだけなのだ。

 要するに、あまり女性に免疫のない生真面目な高校の先生が、たいして会話を交わしたこともないのに、ある女に一目惚れして舞い上がってしまった、という微笑ましい「片想いの物語」にすぎない。二人の間には、愛情を温める交流もなければ、愛憎含めた情念の交わりの歴史があるわけでもない。なのに、どうして男が女に身を削ってまで「献身」してしまうことができるのだろうか。ほとんどコメディか、そうでなければホラーだ。

 しかし私は読了後、無駄な読書をしてしまったことからくる虚脱感を抱えながら、ふと思った。自分はとんでもない勘違いをしているのでないかと。

 この作品は「愛の物語」という体裁をとっているが、それは「見せかけ」にすぎないのではないか。ポイントは、主人公の男が「数学」の教師であるという点だ。

 数学――それは究極の「麻薬」であるといわれている。一流の数学者は寝食を忘れて数学問題の証明に没頭するという。その楽しさは、一度経験してしまうと余事に代え難いほど人間を虜にして放さない。著名な数学者ポール・エルディシュは、友人知人の家を渡り歩き、一生を友人と一緒に数学の問題を解く歓びに捧げたという。またおよそ100年間ものあいだ解かれることのなかった「ポアンカレ予想」の虜になった数学者たちは、その証明に心を奪われてしまった結果、社会人としての生活を破綻させてしまった。

 この物語の主人公は、実はもともとまれに見る数学の秀才であり、将来を嘱望された研究者であった。それが家庭の事情でやむなく高校の教師に転職した。つまり、彼のほとばしらんばかりの数学的情熱は無理矢理封印されざるをえない羽目になったのだ。

 ここまで考えると事態がみえてくる。そう、彼の女に対するほとんど合理的には説明不可能な「理由なき愛」とは、この数学という「麻薬」の代替物なのだ。数学者にとってのかけがえのない実存の欠落を埋め合わせようとする一種の「衝動強迫」――これこそが彼を狂ったように衝き動かした源泉であるといえよう。

 その意味で、この小説は「推理小説」という体裁をとっているが、実は「数学賛歌」の本であるというべきである。そして作者東野圭吾はこの本に実は次のようにタイトルを振りたかったというのが本音であろう。

 ――『数学者Xの数学への献身』

 各書店員さんには、願わくばこの本を推理小説のコーナーではなく、「数学書」のコーナーに配架されることを、作者にかわってお願いしたい所存である。

――献辞 やっちゃん本貸してくれてありがとう

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