高野秀行『怪獣記』
高野秀行『怪獣記』を読んだ。読んだあと、清々しい気持ちになった。清々しい余韻を残す映画とか本とかってのは実にいい。
でも、そういえば高野秀行の本を読んで、こんな気分になったのは初めてだ。そもそも高野の書くものは、「清々しさ」などとは無縁だったはずだ。いや、もっといえば、高野ワールドとは、「清々しくなってはいけない」というところからくる、えも言われぬパワーが魅力なのだ。
たとえば、『アジア新聞屋台村』と並んで高野作品の傑作の一つと私が見なしているのが『怪魚格闘記』である。これはインドに、未知の生物ウモッカを探しにいくというノンフィクションなのだが、未知生物探検記でありながら、実際には高野自身はインドに入国することもできず、その手前でドタバタやっているまま結局物語は終わってしまうという、ほとんど「唖然とする」しかないような怪作である。
そもそも、探検ものとか未知動物探索ものというのは、その発見の正体を見たいがために、読者はハラハラドキドキしながら、頁をめくる。ウモッカ探しは、そうした探検ものが必ず踏まえなければならない「鉄の掟」を根本的に裏切るという、とんでもない作品なのだ。そして、だからこそ、高野の筆は冴え渡る。探検ものに必要とされる最低限の「現地探検」という条件すらクリアーできないからこそ、それを埋め合わせるために、怒濤のような物語展開力と人間観察力を駆使するのだ。この福田首相をはるかに超える「背水の陣」的なエネルギーによって、高野作品お得意の、「人間への愛」と「人間の奇妙さの“発見”」との絶妙なブレンドが際立って醸成されているのだ。素晴らしいではないか!
と、興奮していても仕方がないのだが、今回の作品『怪獣記』である。この作品は、読み始めから、そのリラックスした文体に従来の高野作品にはない「余裕」が感じられ、私としては気になった。これは何なんだろう? 作風を変えたのか? 結局読み終えたあとから分かるのだが、今回は本当に「怪獣」を発見してしまうのだ! このファクトそのものがもつ価値から来る余裕感が、しらずしらずのうちにこれまでの高野作品にはない、ある種の「オレほんとに発見しちゃったもんねぇ~、だからもう無理矢理おもしろ人間描写で盛り上げる必要なんてないもんねぇ~」的な“ゆるさ”を醸し出していたのだろう。
ここまで言っておきながら、それでも私はこの作品に漂う清々しさに心惹かれる。たしかに高野の一連の作品群のなかにおくと、この著作は文学論的には突出した魅力を放つものではない。しかし、私もかつて大学探検部に一瞬所属したことのある人間として、未知のものを自分の眼で確かめることができる歓びは人生の何物にも代えることができないものだということはよく分かる。世の中には、したり顔で「役に立たないことに夢中になることこそ人間の素晴らしさだ」などとうそぶく輩がいる。私は、そいつに「ふざけるな!」といいたい。「役に立たない」とは失礼な! それどころか、自然界の神秘の正体を知ろうと幾多の試練を乗り越えて様々な発見をしてきた人類の歴史の延長上に、高野の“情熱”は位置づけられるのだ。
まあ、ちょっと言い過ぎたが、それほど「未知のものの正体を突き止めたい」という思いは、人類が本質的に有する根源的な本能なのだ。だから、この作品で怪獣が発見されるという顛末は、ある意味、その人類の普遍的な願望が「成就」した瞬間を再現してくれているわけで、とても心地よいものである。怪獣だってなんだって、いつか本当に「発見」されることもあり得るんだ! この希望に満ちた結末を、「清々しさ」以外の感想をもって受けとめることなどできようか!
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