奥多摩渓谷沿いを歩いた

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 紅葉を観るために、奥多摩渓谷に行ってきた。

 奥多摩駅の手前の白丸駅で降りて、渓谷沿いの遊歩道を歩いていくと、晩秋の黄・紅・緑の入り交じった森の世界に浸ることができる。

 実はほんの2週間前にも奥多摩渓流を歩いたばかりだ。少なくとも月に1度は、どこか森やら里山やらをウォーキングやら散歩やら何やらかんやら(って何だ?)するのが習慣になっている。

 そんな「元一部上場企業で課長やってました、でも今は地域のためにゴミ収集ボランティアに積極的に参加してます、たまの週末は妻と一緒に日帰り登山に打ち込んでます、ハイっ!」的な、健康づくりだけが趣味の団塊おやじと同じようなことをするようになってしまったのはいつからだろう。

 思い返すと、きっかけは「歯医者」だ。

 何年か前に、歯の治療のために馴染みの歯科クリニックにいったとき、次のような会話になった。

歯医者 「歯がだいぶ削れてますねぇ~。夜、相当歯ぎしりしてるんじゃありませんか?」

 「はぁ~。自分では分からないんですが。歯ぎしりを止めるためにはどうしたらいいんですか?」

歯医者 「歯ぎしりの原因はストレスです。」

 「ほう、すると、仕事のストレスを減らしたほうがいいということですか?」

歯医者 「違います。人間とはもともと、原始の時代には、森や野原を駆け回っていました。それが自然なのです。無理矢理、都会のような人口の密集した場所に住んでいること自体がストレスなのです。」

 「は?」

歯医者 「ですから、定期的に郊外の森などに行って、人間のなかにある原始の感覚を解放してやることこそ必要でしょう」

 「・・・」

歯医者 「ほら、重いものを持つときに、歯を食いしばるでしょ。歯ぎしりは、重いものをもつための一種のシミュレーションなのです。身体が「重いものを持ちたい、運動したい」という「声」を発しているんですよ。」

 その後、この歯医者のあやしげな高説は15分ほど続いた。なんとも、まあ、歯痛がぶっ飛んでしまうほど、ファンキーな学説、というか珍説だ。

 要するに、先生によれば、遺伝子のなかに組み込まれている原始時代の感覚が発している悲鳴、それこそが「歯ぎしり」の正体である、というわけだ。なんだか、歯ぎしりという「マイナス」の症状が、突如、かっちょいいものに思えてきたから不思議だ。なんてったって、原始時代から歴史を超えて届いた「雄叫び」なのだから。

 とはいえ、「日本一理性的な人間」をもって目下売り出し中の私としては、まあ、ファンキーな歯医者の先生には悪いけど、はっきりいえば、そんな話は全く信じられなかった。

 のだが、その後、どうして週末になると郊外にいそいそと出かけるようになってしまったのだろうか、私は? しかも、心の中がうきうきするのだ。まるで、私のなかの原始の感覚が目覚めるように・・・・・・ん?

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宮田珠己のエッセイで悶絶した

 宮田珠己というエッセイストがいる。おもにアジアなどを旅して、旅行エッセイを書いている。

 なんと形容していいいのかわからんが、ふざけたエッセイである。というか、ふざけたヤツである。まったく・・・

 私は作家の真骨頂はすべて処女作に凝縮されているという持論をもっているので、まずは宮田珠紀の最初の作品である『旅の理不尽』を手に取った。

 こいつはバカか、と思った。

 読者は、このあと、「このバカさ加減にまいった、うほうほ(笑)」とか、「この革命的アホさが気に入った、イェーイ!」とか続くと思っているかもしれないが、私は本気で、あまりのアホさ加減に思わず本を投げ出したのだ。滅多にないことである。

 ほんとに「頭からっぽ!」という感じである。たとえてみれば、展開みえみえ、70年代少女漫画のほうがまだ物語に深みがあったぞ的なツッコミを入れたくなるほど単純きわまりない韓国ドラマにはまっているアラフォー女の頭の中くらい、「頭からっぽ」という感じである。

 そういうお前だって、チェ・ジウ主演のドラマ『真実』のなかで、チェ・ジウのことを金持ち娘だと思いこんでいたのだが本当は運転手の娘だと気が付いた恋人の男にボロぞうきんのように捨てられたチェ・ジウのよよと泣く姿に涙してたじゃないか、とか何とかツッコまれてしまうと、返す言葉もない。

 しかし、私の家には立派な棚があって、自分のことをその棚に上げることができるので、そういう的を射た反論は独断的に却下させてもらうのだ。

 そういうわけで、幾多の反論の嵐をバッタバッタと見事に切り捨てて、「宮田珠紀=頭からっぽ」説に落ち着いた私は、そんな作家がいることさえ、すっかり忘れていた。

 のだが、ある日、なんかのきっかけで『わたしの旅に何をする。』という、いささか挑発的な題名の本を手に取った。

 革命的におもしろかった。

 私が宮田珠紀にはまった瞬間は、たしか52頁(テキトー)あたりの次のようなくだりを読んでいるときである。たしかインドあたりを旅していたときに、カナダ人だか何人だか忘れたが西欧人に会って、その人に「君はどんな仕事をしているんだ?」と訊かれて、宮田が「サラリーマン」と答えようと思ったのだが、いや待てよ、サラリーマンというのは和製英語ではないか?、とすると英語では「ビジネスマン」というのではないか、おお!いかにも「仕事のできる男」という響きがしていいではないか!と思って、意気揚々と「ビジネスマン」と答えたところ、相手は「私はテクニシャンだ」と答えたので、宮田が、なにおー!! 私が夜の生活のほうでテクニックがなさそうだと決めつけるのか! おおそうか! バカにするなよー! とか何とか息巻くところは、腹がよじれるぐらい笑った。(※テクニシャンというのは技術者のことである)

 たぶん、15分ぐらい、笑い続けたと思う。笑いすぎてこのままだと死んでしまうと思ったのは、6歳のときに「8時だよ!全員集合」でカトちゃんの「ちょっとだけよ~」を観て以来のことだ。

 なに? 結局お前は、下ネタにウケている頭からっぽの6歳の子どもと変わらんのではないか、だと?

 まあ、そう言われると返す言葉もないが、繰り返しになるが、そういう的を射た反論は却下させてもらうのだ。

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興奮のあまり、へとへとに疲れ切った

 私はフットボールの試合をリアルタイムではなく録画で観ている。なぜなら、リアルタイムでは深夜になってしまうし、2時間もゆっくり観られる余裕などなかなかないからだ。

 そういうわけで、よくやるのが、あらかじめ録画した試合を、仕事が終わったあと今夜は前半、明日は後半、てな具合にぶつ切れにして観るというやり方だ。

 さて、今回の観戦は、イングランド・プレミアリーグ第9節、チェルシー対リヴァプールの頂上決戦だ! リヴァプールをひそかに応援している私としては、興奮しないわけがない。

 正直なところ、両者の力を客観的に計測すれば、やはりチェルシーのほうが地力で勝っていると思う。だが、だからこそ、なにが起こるか分からない本番は、手に汗握るほど興奮するのだ。

 よっし! 観るどぉーー!!

 いや~、すごい試合だ。中盤時点でボールを互いに奪い合い、一瞬も気を抜くこともできない、緊張感溢れる、すさまじいぶつかり合い。これほどの気力の高まりをみせた質の高い試合は滅多にみることができない。画面を通しても、両者のこの試合にかける意気込みの凄さがビシバシ伝わってくる。

 興奮の瞬間は早くも前半10分にやってきた。リヴァプールのシャビ・アロンソが1点を決めたのだ。うおぉぉぉぉぉ!! その後は再三攻め込まれながらも、リヴァプールが1点を守りきって前半終了。

 ついでに視聴も一旦終了。

 後半を観るのが待ち遠しい! 次の日は、仕事をしながらも、心はゲームの続きへと飛んでいる。 

 そして、ついに視聴タイムがやってきた。ちょっと冷えた夜だったので、しょうが湯をつくってスタンバイ。よっし! 観るどぉーー!!

 とても、このまま無事に逃げ切れるなどとは露ほども思えなかったので、ワンプレーワンプレーにハラハラドキドキしながら見守る。だが、後半もリヴァプールは、点取り屋のフェルナンド・トーレスを欠いていることを感じさせないほどのねばり強さをみせる。むしろ、チェルシーに対して、押し気味にゲームを進める。

 結果的にリヴァプールが前半10分にシャビ・アロンソが決めた1点を守りきって勝利。

 しかし、ほとんど気迫勝ちだと思う。「俺たちは絶対に勝つんだ!」という執念が痛いほど伝わってきた。いやあ、本当にいい試合を見せてもらった。歴史に残る名試合、名勝負だったと思う。その歴史に束の間だけでも同伴できて、幸せなひとときだった。

 ん!? ありゃ? 興奮と緊張のあまり、しょうが湯を手にもったままだった。あちゃ~、もう冷めちゃったよ・・・

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ブエナビスタ・ソシアルクラブ

 昨日のつづきになるが、キューバ音楽をとりあげたドキュメンタリー映画にもいいのがある。たとえば、なぜだか知らないが世界的にヒットしてしまった「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」。

 世界的にもマイナーな国の、しかもマイナーな伝統音楽が、なんで日本でこんなにブームになったのか未だに分からないが、とにかく大ヒットした。まあ、私としては、なんだか映画館が混みそうで、なんとも迷惑な話だ、ぐらいにしか思っていなかったのだが・・・

 とにかく、キューバの往年の音楽家たちが勢揃いする映画「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」は、当時の私にとっても待ちに待った映画だったので、意気込んで映画館に向かった。

 当時、なぜだか覚えていないが大阪の梅田あたりの映画館に行った記憶がある。そして、これまた何でか覚えていないが、横にはラテン音楽には全く興味のないはずの、当時つきあっていた女がいた。

 映画の内容はもちろん素晴らしかった。まあ、私にとっては、昨日も言ったように、とにかく良質のキューバ音楽さえ詰め込まれていれば、気分は「天国」なのだ。おまけに、あまりにも渋すぎるキューバ音楽の至宝たちの奏でる珠玉の音の世界、すばらしい! もう余計なものは何もいらない・・・

 至福のときをすごして、何気なく横の座席をみると、思いっきり爆睡している生物がいるではないか!! ぬおっ! キューバ音楽の至宝たちを前にして、よだれを垂らして鼻提灯をふくらませているとは何と無粋な!

 そして目を覚ましたときに発したのが、「あんまり良い音楽だったので眠っちゃった! 村上春樹もこの映画観たとき、音楽が良すぎて眠っちゃったんだって」

 私には、なぜ村上春樹が眠ると、この映画を観るときに眠っても良いことになるのか、その因果関係がいまいち分からなかったが、まあよい。キューバ音楽の至宝たちを前にすると、すべてのことは「人間万事塞翁が馬」、じゃなかった、え~と、とにかく、細かいことはどうでもよくなるのだった。

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キューバ音楽の映画

 たまたま夜中にBSで「ダンシング・ハバナ」というキューバ舞台のアメリカ映画が放映していたので、つい観てしまった。キューバ音楽ものの映画はけっこう観ているつもりだったけど、この映画は初めてだった。

 ちなみに、映画の話だからといって、今回に関してはまともな批評ではないので、悪しからず。というのも、私はキューバ音楽ものの映画を観るときはほとんど音楽に酔いしれ、うねるリズムのなかで忘我状態になっているだけで、ほとんど鑑賞などしていないからだ。観ているというより、ほとんど一種の「トランス体験」だ。

 そんなわけで、感想としては、あ~ぁ、気持ちよかった、というだけなのだが、まあ、敢えて映画としての批評をいえば、こりゃB級映画だな。しかし、まあそれでいいのだと思う。

 私がこの手の映画のなかでも好きなのは、たしか10年ぐらい前のフランス映画だと思うが「サルサ!」というタイトルの映画がある。これはフランス人のクラシック・ピアノの名手が、キューバ音楽に目覚めてしまい、あるキューバ人の血を引く女性と恋に落ちるという物語だ。話の内容は、もう単純きわまりないロマンスというか、要は男と女が恋に落ちて行く手を阻む移民問題や人種問題などに翻弄されながらもいろんな障害を乗り越えていくっていう「お伽噺」なんだけど、それが実にいいんだね。めくるめくラテンの世界に浸っていると、「お伽噺、いいじゃないか!」「夢物語、おおいに結構!」っていう気分になってくる。

 そういえば当時、この映画が銀座で上映された際には、鑑賞チケットにサルサダンス教室の「お試し無料券」みたいなのが付いていて、映画を見終わった女性が感動のあまり、「やっぱりロマンスはダンスからよ!」てな具合に誤解してしまい、即ダンス教室直行というパターンがけっこうあった。実際、この映画をきっかけとしてかどうだか分からないが、その当時サルサ・ダンスが20代、30代の女性のあいだでかなり流行っていたという記憶がある。そんなわけで、サルサ・クラブ人口はますます女性過多状態が増幅されていって、にわかサルサ女たちはロマンスからはますます縁遠くなっていくという、ちょっと面白い逆スパイラル状況が生まれていた。

 ちなみにこの映画の音楽はたしか全編シエラ・マエストラが手がけているんだけど、シエラ・マエストラっていえば、アダルベルト・アルバレスと並んで、キューバ音楽の伝統を現代に蘇らせた貢献者ってことで、キューバ音楽の神髄がずいずい、ぐいぐい来る。映画のなかで、メンバーが即興的に演奏をしているシーンなんかが結構でてくるんだけど、そのシーンに浸っているだけで、もう天国にいるような幸せ感に包まれてしまう。

 さらにこの映画では、キューバ音楽だけではなく、60年代ニューヨーク(のラテン人たち)を一世風靡したブーガルーも流れている。実はあの、プエルトリカンたちが流行らせ、70年代のサルサ勃興の源流ともなったブーガルーにだってキューバ音楽が貢献しているんだぞ、っていうシエラ・マエストラの気概が伝わってくるようで、すごく面白い。

 想像してみてほしい。20世紀末のフランスを舞台としたキューバ音楽やダンスをめぐる映画のなかで、あの60年代NYラテン界を席巻していたレイ・バレットやらイシドロ・インファンテが流れているのだ! フランス、キューバ、ニューヨークの時空を超えた交錯が醸し出すハイブリッドな魅惑を、映画のなかで体験できるのだ。

 そんなわけで、実はブーガルーも大好きな私としては、もう一挙両得の映画なのだ、この「サルサ!」は。

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ラーメン屋「えぐち」の謎

 もう10年以上前になるが、三鷹に住んでいた頃に、駅前の小さなラーメン屋によく通っていた。「えぐち」という知る人ぞ知る店で、かつては近所に住む有名な文豪もひいきにしているという店だった。行列をつくるほど混むことは滅多にないが、往年の贔屓客がついていたせいか、席はいつも埋まっていた記憶がある。

 それなりに名が知られていた店であるから、「味のほうはさぞや」と思われるかもしれないが、正直なところ、美味しいと言い切る自信はない。まあ、客観的にいえば、たぶん「まずい」のだと思う。振り返れば、私は知人を計10人ほど「えぐち」に連れて行った計算になるが、そのうち「うまい」と言ったのは1人だけだった。しかもそいつは味音痴だった。

 では、なんで私は、旨くもない、というかまずいラーメン屋なぞに足繁く通っていたのだろう。あらためて振り返ってみると不思議でならない。店の親爺がドバッとスープに入れる味の素のせいで舌が麻痺でもしてしまっていたのだろうか。たぶん、それもあるだろう。ただそれとは別に、私は不思議なものに意味もなく惹きつけられてしまう悪い癖があって、「えぐち」はその意味では、私の琴線におもいっきり触れるところがあったのだ。

 それは、一言でいえば、「注文通りに品物がでてきたためしがない」という点につきる。たとえば、私が「チャーシューめん」を頼むと、なぜか「五目そば」が出てくる。「五目そば」を頼むと「ワンタンめん」がでてくる、という具合だ。いったいどうして、こちらの注文した内容が店の親爺に通じないのか、不思議でならなかった。最初の頃は腹が立って、「ちがうよ、おやじ」とか文句を言っていたのだが、そのうち諦めた。何度言っても、相も変わらず注文とはちがうものがでてくるからだ。そのうち、気が付くと、果たして今日は何がでてくるか愉しみすら覚えるようになっていた。俗に、これを三鷹界隈では「えぐち病」と呼ぶらしい。

 ただ、私は、不思議な現象に身を任せたまま、「人生とは不条理に満ちてるものなのだ、ふむふむ」とのたまうほど達観してはいない。ましてや、「この不思議さが心地良いの!ルン!」とか言って、思考停止の不思議ちゃんになってしまうほど、おめでたくもない。こうみえても私は、『海底二万里』のネモ船長に負けないぐらい、ロジカルな人間なのである。不思議なものを見ると、とことんその正体を暴きたくなるのだ。

 そんなわけで、私はある「仮説」を立てた。それは単純なことで、注文内容と実際にでてくる料理の「ズレ」には、ある法則性があるのではないか、ということだ。簡単にいえば、「ラーメン」をたのむと「チャーシュー麺」が、「チャーシュー麺」を注文すると「五目そば」が、以下列挙すると、「五目そば→ワンタンめん」「ワンタンめん→タンメン」「タンメン→五目チャーシュー」・・・という具合の規則的な変換法則が存在しているのではないかということだ。これはそれまでの経験を振り返って、まさしく「実証的」に編み出した理論だった。名づけて「えぐち、ラーメン変則の理論」である。

 思い立ったが吉日、その日、意気込んで私はえぐちに向かった。そして私は、チャーシューめんを注文した。変則理論に基づけば、「五目そば」がでてくるはずだ。私は、おやじがラーメンを出してくる瞬間を待った。こういうときほど、時間の経つのがうらめしくなるときはない。普段以上に、おやじの湯切り作業がちんたらしているように感じる。う~ん、じれったい。早く来い、なにがでてくるんだ、おやじ! 

 「へい! おまちぃ~」。次の瞬間、湯気に覆われたどんぶりが私の前に置かれた。湯気のせいで、中身がよく見えない。なんなんだ。その瞬間、私の目はとらえた、五目そばだ! それは、自分の理論が証明された瞬間だった。やった勝利だ! っていうか、なにに勝ったんだかよく分からないまま、私は不思議な充実感に満たされていた。

 感動をかみしめ、勝利のラーメンに酔いしれながら、次第に落ち着いてくると、私は自分の理論の検証作業をさらにすすめた。他の客の注文も、変則理論の通りになっているか、確かめ始めたのだ。その結果、ばっちり、理論どおりに事が進んでいるではないか! 私は確信した。自分は間違っていなかったと。なるほど、スケールは違えど、深遠なる宇宙の法則を解き明かしたときのアインシュタインの気持ちとはこういうものだったのかと、実に感慨深かった。

 さて、1週間ぐらい経った頃であろうか、私は久しぶりにえぐちに向かった。もはや恐いものなどない。宇宙の法則、否、えぐちの法則はすべて解き明かした、その謎の正体はすでに我が手中にあるのだ。店ののれんをくぐると、タンメンを食べたかった私は、意気揚々「ワンタンめん」と叫んだ。やはり、自分のこれから食べる料理の正体がはっきりしているのは安心する。食事時ぐらい、人間、心安らかにいたいものだ、などと、えぐちで初めて体験する安寧に身をまかせながら、出されたどんぶりのなかに野菜をまさぐって口にした。

 「こ、これはワンタン!?」 正直、何が起こったのか、よく分からなかった。法則通りにいけば、今ごろは健康的にタンメンを味わっているはずなのに、目の前にあるのは「五目ワンタンめん」。目が点になる、というのはこういうことなのだと初めて体験した。一瞬、思考が働かなくなるのだ。

 「ど、どういうことだ?」 思わず声に出してしまった。それほど唖然としていて、周囲がみえなくなっていた。次の瞬間、横の男がぼそっと言った。「あんちゃん、まだまだやなぁ~」。たしか、その男は、よくえぐちで見かける常連だった。顔なじみから「やまちゃん」とか呼ばれていたはずだ。もっとも、私は彼とは2、3度しか話したことはなかった。それもたわいもない世間話だ。

 驚いた私は、その通称やまちゃんの顔を、無遠慮にもまじまじとみてしまった。すると、やまちゃんは、私にこう言ったのだ。「えぐちの変換法則は、一朝一夕にわかるもんやない」と。私はわけがわからず、「えっ? どういうことですか」とたずねた。男は急に声が小さくなり、なにやらぶつぶつ言っている。私は必死で聴き取ろうと、店の喧噪のなかで耳をダンボにするも、どうもわかりづらい。ただ、おおよそ男は次のような内容のことを言っていた。えぐちの変換法則は、1週間に1回変更する。その変換パターンは、独自の乱数表を組み替えることで、ランダムに毎週定めている。もしそれが知りたければ、来週この店に来い、と。

 にわかには信じがたかった。言っちゃあ何だが、たかだか場末のラーメン屋のメニューのことで、「乱数表」やら「変換パターンの組み替え」やら、話が大げさすぎる。まるで秘密組織の暗号解読のような話ではないか。あまりにリアリティがない。えぐちは、どう見ても、どうひっくり返しても単なるラーメン屋だ。それ以上でもそれ以下でもない。だが、はとが豆鉄砲を食らったような顔をした私を置いて、やまちゃんはそのまま店を去っていった。

 その後、しばらく私は、えぐちには行かなかった。たしかに私は、不思議なものに心惹かれるが、今回の件はあまりにリアリティに欠けすぎている。そんな話は、「ディズニーランドの地下に鼠用駆除剤を大量生産する秘密工場が存在する」という都市伝説以上に突飛すぎるし、だいいちバカバカしいにもほどがある。たぶん、常連のやまちゃんが、気晴らしに新顔の私をからかっただけだろう。それに結局、注文通りにラーメンがでてこないのも、単におやじの物覚えが悪いだけだ。私はそう結論づけた。そのため、自然とえぐちからは足が遠のいた。

 それから3週間ぐらいした頃だろうか、なぜだか分からないが、ひさしぶりにえぐちに行ってみた。たぶん、完全に割り切ったと思いながらも、どこかでやまちゃんの話が気になっていたんだと思う。店に入って注文を済ませて、まったりと新聞を読んでいると、隣のおやじが話しかけてきた。「あんた、やまちゃんに乱数表の話もちかけられたかい?」。私はびっくりして、「えっ?」と問い返すと、おやじは「いや、きいてなきゃ、いいんだ」と、そそくさと店を出て行ってしまった。どうしてあの話を、他の人が知っているのだろう。

 わけが分からなくなった私は、とにかくやまちゃんに会わなければと思い、しばらくえぐちに通って彼を捜した。だが、結局かれには二度と会えなかった。何人かの人から聞いたところによると、どうもやまちゃんは私に乱数表の件を話した1週間後ぐらいに、この街から去っていったということなのだ。結局、あの話は本当なのかどうなのか、それを確かめる術はなくなってしまった。

 ただ、その後、いろいろな人に聞いてみたところ、やまちゃんが乱数表なるものを持っていて、それを誰かに託そうとしていたらしい、という噂そのものはあったらしい。そして、その乱数表が店の「注文→実際」の関係性を指示する内容のものであったらしい、という噂もきこえてきた。ただその噂の内容そのものが本当なのかデマなのかは、誰も分からないらしい。

 さらに噂の内容を掘り下げていくと次のようなことが分かってきた。一見、物覚えが悪いだけで間違えているようにみえる、えぐちのおやじの注文/料理のズレは、実はやまちゃんとの相談のうえで乱数表に基づいて毎週定められている法則性に従っていること、そしてそれは客のなかではやまちゃんだけが知っているということ、さらにその乱数表の所持は一子相伝の掟によって、常連のなかで代々受け継がれてきたこと、したがって、今回やまちゃんは三鷹を離れるにあたって、乱数表を相続する相手を探していたこと。

 う~ん、ということは、やまちゃんが私に話しかけてきたのは、その乱数表を一子相伝で私に受け継がせようとしていたということなのか。つまり、私が、えぐちの乱数表相続の系譜のなかにその身を置く可能性があったということか。う~ん、信じられない。ますます、話が現実離れしてきた・・・

 結局、なんだかわけが分からないまま、話はうやむやになってしまい、その後しばらくして私も三鷹から越していったので、謎は深まるままだった。ただ、今でも思う――もし、やまちゃんの話が本当なら、今ごろ私が相続するはずだった乱数表が密かに誰かの手に受け継がれているのかも知れないと。

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高野秀行『怪獣記』

 高野秀行『怪獣記』を読んだ。読んだあと、清々しい気持ちになった。清々しい余韻を残す映画とか本とかってのは実にいい。

 でも、そういえば高野秀行の本を読んで、こんな気分になったのは初めてだ。そもそも高野の書くものは、「清々しさ」などとは無縁だったはずだ。いや、もっといえば、高野ワールドとは、「清々しくなってはいけない」というところからくる、えも言われぬパワーが魅力なのだ。

 たとえば、『アジア新聞屋台村』と並んで高野作品の傑作の一つと私が見なしているのが『怪魚格闘記』である。これはインドに、未知の生物ウモッカを探しにいくというノンフィクションなのだが、未知生物探検記でありながら、実際には高野自身はインドに入国することもできず、その手前でドタバタやっているまま結局物語は終わってしまうという、ほとんど「唖然とする」しかないような怪作である。

 そもそも、探検ものとか未知動物探索ものというのは、その発見の正体を見たいがために、読者はハラハラドキドキしながら、頁をめくる。ウモッカ探しは、そうした探検ものが必ず踏まえなければならない「鉄の掟」を根本的に裏切るという、とんでもない作品なのだ。そして、だからこそ、高野の筆は冴え渡る。探検ものに必要とされる最低限の「現地探検」という条件すらクリアーできないからこそ、それを埋め合わせるために、怒濤のような物語展開力と人間観察力を駆使するのだ。この福田首相をはるかに超える「背水の陣」的なエネルギーによって、高野作品お得意の、「人間への愛」と「人間の奇妙さの“発見”」との絶妙なブレンドが際立って醸成されているのだ。素晴らしいではないか!

 と、興奮していても仕方がないのだが、今回の作品『怪獣記』である。この作品は、読み始めから、そのリラックスした文体に従来の高野作品にはない「余裕」が感じられ、私としては気になった。これは何なんだろう? 作風を変えたのか? 結局読み終えたあとから分かるのだが、今回は本当に「怪獣」を発見してしまうのだ! このファクトそのものがもつ価値から来る余裕感が、しらずしらずのうちにこれまでの高野作品にはない、ある種の「オレほんとに発見しちゃったもんねぇ~、だからもう無理矢理おもしろ人間描写で盛り上げる必要なんてないもんねぇ~」的な“ゆるさ”を醸し出していたのだろう。

 ここまで言っておきながら、それでも私はこの作品に漂う清々しさに心惹かれる。たしかに高野の一連の作品群のなかにおくと、この著作は文学論的には突出した魅力を放つものではない。しかし、私もかつて大学探検部に一瞬所属したことのある人間として、未知のものを自分の眼で確かめることができる歓びは人生の何物にも代えることができないものだということはよく分かる。世の中には、したり顔で「役に立たないことに夢中になることこそ人間の素晴らしさだ」などとうそぶく輩がいる。私は、そいつに「ふざけるな!」といいたい。「役に立たない」とは失礼な! それどころか、自然界の神秘の正体を知ろうと幾多の試練を乗り越えて様々な発見をしてきた人類の歴史の延長上に、高野の“情熱”は位置づけられるのだ。

 まあ、ちょっと言い過ぎたが、それほど「未知のものの正体を突き止めたい」という思いは、人類が本質的に有する根源的な本能なのだ。だから、この作品で怪獣が発見されるという顛末は、ある意味、その人類の普遍的な願望が「成就」した瞬間を再現してくれているわけで、とても心地よいものである。怪獣だってなんだって、いつか本当に「発見」されることもあり得るんだ! この希望に満ちた結末を、「清々しさ」以外の感想をもって受けとめることなどできようか!

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イングランド・プレミアリーグ開幕

◇ニューカッスル 1-1 マンチェスターU

 ついに08-09シーズンが開幕。あのヨーロッパ特有の地響きのような観客の歌声が耳に心地い~! ひさびさにみるプレミアのプレイ。華麗なパスさばき、驚異の個人技、オレが決めてやるという「オレ様中心主義」、どれも最高! ここのところ、五輪やら代表のウルグアイ戦やら、日本チームのバーバリアンなプレイに食傷気味だったので、本物の良さを余計に実感。

 この試合、マンチェスターUのほうは、ケガのC・ロナウドをはじめとして、テベスなどレギュラーメンバーに多くの欠場者がでたため、18歳、19歳の新人がほいほい出てきていた。だが、どうもいまいちだ。それに比べ、ニューカッスルはなかなかまとまっている。今年こそ、上位に食い込めるのでは。

 しかし何よりもこの試合で注目したのは、ESPから移籍してきたニューカッスルのアルゼンチン人プレイヤー、グティエレス。その長い足が繰り出すドリブルやパス回し、そのなんとも奇術的で不思議な動きに目を吸い寄せられた。こやつがボールをもつと何かが起こりそうな、そんな不思議な「リズム」をもつ男だ。

 それに、この男、試合中にやたらと審判に話しかけている。プレーが中断したときには、かならずといっていいほど、主審と旧知の間柄のように談笑している。その行動、どれをとってもなんか不思議なんだよねぇ。今シーズン、こやつに注目!

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ムッシュ・カステラの恋

◇フランス映画(1999年)

 ある会社社長が四十路の舞台女優に惚れてしまい、あれこれアプローチするも、まったく相手にされない。満を持して、口ひげを剃り、愛の詩を読むが、その顛末やいかに。社長のボディガード、バーの女など魅力ある人間たちの人生とオーバーラップしながら、物語はすすんでいく・・・

 いい映画だ。男たちの繊細さと純粋さ、それがどう社会と折り合いをつけていくか、とても繊細に描かれている。登場する男たちが、人間としてとても愛おしく感じられる。何度でも繰り返し観たくなる、大人のための映画。

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ルパン三世

 ここ数日、NHK-BSでルパン三世特集をしていた。第1シリーズを久しぶりに観た。一般に知られているのは、主題歌が人口に膾炙している、赤ジャケットルパンが登場する第2シリーズだ。

 第1シリーズは、第2シリーズとは全く異なる。これは大人の世界だ。物語の奥深さ、車や拳銃の細部へのこだわり、どことなく全編を漂う哀愁感、どれをとっても大人の男の世界だ。

 解説者が言っていたが、このシリーズは、大人の世界に憧れる少年の視点から描いたものではなく、大人自身が自分の理想をとことん突きつめた世界なのだと。

 あまりにも渋い。あまりにもとんがっている。ルパンの顔からして、子供っぽさなどみじんもないシャープさ、クールさ。

 スタッフたちが視聴率などきにせず、子どもなどに見せなくてもよい、大人の世界を追求するんだ、という意気込みが溢れんばかりに感じられる第1シリーズの前半部の世界。これはアニメというより映画だ。視聴率低迷のために、後半は路線変更してファミリー向けに馴化されてしまう前に一瞬だけ奇跡的に実現した世界なのだ。

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«それを愛とは呼ばない